ジオの密室性ーーパーソナリティと深い時間を共有し、息を潜めてラジオに聞き入るリスナーの共犯意識というのは、たしかに心地よいし、中毒性がある。

メディアを通じて「広く社会に発信されている」はずの番組を、Small circle of friendsで占拠している倒錯感もあって、ハガキ職人達は、あえて“インモラルでエッジの効いた”内角ギリギリのビーンボールまがいの球を投げてくる。

スタッフもDJもその共依存的な“甘え”をあえて受け止めるのが仕事ではある。そうした荒れ球を、あえてスカしたり、時に悪乗りしてみたりの距離感のマジックで翻弄し、手のひらの上で遊ばせるのがプロの腕前だと思う。

それゆえラジオ番組にはテレビにない密着性が生じる。

論、それは高度なアクロバットだ。パーソナリティ側には常に、自分が危険物を扱っている自覚が求められる。ーーでなければあっという間に、場は濁り、悪趣味の沼に落ちるからだ。

フグ職人がキモの扱いに一回の失敗も許されないように、紙一重の包丁さばきで、ネタの毒を中和し、電波に乗せるに足るサイズに収める技術が要求される。

喋り手がアクロバットの万能感に酔い、自家中毒になってしまったらおしまいだ。リスナーはアマチュアであるから、忖度も手加減も必要ないが、送り手側は、楽しみつつも遊戯に溺れてはいけない。

今回の岡村発言は、明らかにその匙加減を誤って、自らの中の歪みーーテレビで言えば性器を露出したに等しい。

いは緊張と緩和の産物だ。
タブーに限りなく近づきつつも、塀のギリギリ外側に立ち、規範を嗤うことで最大の爆発力を生むーーしかし、今回彼は事もあろうに塀の内側に立って社会の歪みを肯定し、さらには自らのねじれた欲望を笑いに使おうとした。

その位相の狂い、ポジショニングの錯誤ーー平たく言えばその「ダサさ」こそが責められているのだ。

アンモラルな発言自体もどうかとは思うが、何より商売道具である「笑い」のコントロール方法を誤ったこと。そしてファンとの共犯関係のマジックを暗転させたこと、それが彼の「罪」として一番問われるべき問題なのだと思う。

ハガキ職人の彼がその責任を負う必要はない。
あくまでネタの処理を間違えた、岡村が悪いのだ。