は生きるだけで害毒を撒き散らす。

「誰かの邪魔にならない人生」などありえない。それを踏まえた上で何かを構想し、作り、前に出る作業を続けるのは「積極的に迷惑を撒き散らす」ことに他ならない。

たまさか呉越同舟で船に乗り組んでくれる人もいるが、残念ながら彼らの身の安全は保証できない。

俺には大きな資本の後ろ盾もないし、人より優れた才覚があるでもない。あるのは熱だけだ。万全のバックアップ付きで安楽な旅を求めるのであれば、乗る船を間違っている。大きな保証が欲しければ、それに見合う大きな拘束に首まで縛られてもらうほかない。

そもそも、己の発案に他人の関与を呼びかけるのはデメリットの押し売りに他ならない。メリットももちろんあるが、そんなものは氷山の一角だ。少なくとも自分が船頭である以上、泥舟になる可能性は最初からオープンにし、それでも行きつきたい場所があるのだと、先々を語るしかなかった。インフォームド・コンセントの労はサボらないようにしたつもりだが、それでも「こんなはずではなかった」「お前は俺を守ってくれなかった」と愚痴を口にする人が出る。

当然だろう。得たいと思ったものが手に入らなければ、人はネガティブになり、誰かを呪う。まして損を被れば、自分が相手に強いた労苦や迷惑は一切脇に置いて、被害者である自分だけにフォーカスしてしまうのは人の性だ。だからといって、こちらも刀を抜いて何をしてやった、何が不払いだと騒ぐ気もない。

ただ目を閉じて、無言で天を仰ぐだけだ。
ため息すらもつきたくない。

致し方あるまい。
人生の捉え方、事のなし方が違うのは当然のこと。

目的地が違うなら道を分かつだけ。重なる部分があるなら、再び並走することになっても顔をしかめたりはすまい。貸せる力があれば惜しまないし、借りはできるだけ作らず、さらに身ぎれいにしようと思う。ただ、いちいち出来不出来の責任を転嫁されても全部は引き受けられない。そのことだけははっきりしておこう。あまり寄りかかられても、貸す程の余った軒も袖もないのだ。

呉越同舟とは、結局そういうことなのだと思う。
永劫に独立独歩で進む覚悟と、己の耳目皮膚感覚のみを信じる逞しさがなければ、その非情には耐えられない。

だからこそできるだけできることは一人でやり、可能な限り無理を背負うのは自分ひとりであろうと考えてきた。

その結果、時流に乗って派手に事業を展開することが出来ず、逆に不手際が重なって、本来あるべき形に届かないことも多かった。これは僕の自信のなさであり、人間不信の現れでもあって、事業者としては決して褒められた部分ではないだろう。それによって不利益を被った人には、不徳の至りと頭を下げるしかない。

正しいとも間違っているとも言うまい。
それしかできないのだ。

どんなネガティブな評判を立てられても、陰口を叩かれても、俺はここに居るこの身の丈以上でも以下でもない。デマゴーグに反論などしても仕方がない。

己の性に従って、これからも、これまでどおり一人でできる限りのことをやっていくだけのこと。

仮に道程で「一人」と「一人」が力を合わせることはあっても、「我々」になることはない。その原理原則を胸に刻んで、また一歩ずつ歩いていくだけだ。

結果として大きな利益が回収される場合もあるだろうし、潮目が変わって蜜の川が生じれば、逆に物欲しい人々が蟻の如く集るだろう。

またそれはそれで浅ましい光景であり、心寂しいなと感じる。所詮生き地獄に居るだけのことかとも思うが、それでも足は止めまい。

いずれそれもできなくなる時が来るのだから。