「サブ・カルチャー」って言葉が、なんかイヤだなとずっと思っていた。

“サブ”ということは絶対に主流には「ならない」排外された存在であり、「なれない」という屈折した感覚も宿してしまう。ーー「余計もの」だったり、「無くても困らないもの」だったり、そんなちょっと拗ねたようなニュアンスで、好きなものを語りたくないなと、ずっと思っていたのだ。

「サブカル」という呼び名は、言ってみれば「ブンガク」や「クラッシック」、いわゆる“ハイ・カルチャー”の傍流ーー大衆に消費される劣化品という蔑視の感覚を大いに含んでいる。「本筋」があって、お前らは「脇」だと見下されているとしたら、それって「差別用語」だと言ってもいいんじゃないか? ぐらいの気持ち悪さがある。

そんな「大文字」方面からの差別を、当事者たちが自虐的に受け入れていいわけがない。

70’s育ちの僕にとってSFやミステリーやマンガやロックは、それこそ空気のようなものだった。
既に生まれた時にはテレビや雑誌がふんだんに供給され、いわゆる「大文字」のカルチャー教養より身近で、そしてリアルな存在だった。
でも、それら小説や映画は、娯楽のための消費にとどまらず、本来「大文字」カルチャーが担いきれなかった“枠外”の哲学も思想が、じっくり煮こまれたスープのように溶け込んでいて、その滋養によって僕は社会や人間を見るベースを作ったと思う。

「大文字カルチャー」の持つ正統性だけで世界を見ていては、本質はつかめない。
大多数のもつ常識を、逆の視点から検証しなおし、時に真面目くさった権威や既得権を笑い飛ばすパワーをもつ、思考するための“王道”がそこにはあったと思うからだ。

だから「サブカル」という言葉の持つ、ヒネた疎外感は、僕の感覚にはあまりない。
「オタク文化」という番外地の住人にもなった覚えが全然ない。
むしろ、自分の好きな本や映画、音楽には、誇りと育ててもらった恩義を感じる。

拗ねた「部外者」の暇つぶしの手遊び(てすさび)なんかでは絶対ない。

もちろん生きる上で、「カルチャー」のくれる知識は地図にはなる。
しかし、街を歩くときに必要なのは地図だけではない。
方位を見定め、己の行き方を決める羅針盤が物語であり、インチキや馴れ合いを跳ね飛ばして前へ前へ進んでいくエンジンが音楽だった。

ウジウジした「サブカル」なんて屈辱的蔑称で貶められるような筋合いはまるでない。
そもそもエンターテイメントとは、世界と向き合うための武器だったはず。
部屋に閉じこもるためのシェルターなんかではない。
もっともっと志の高いものだったのだ。

かと言って「大文字カルチャー」と、どっちが上等か下等かなんて議論をするつもりも毛頭ない。
きっとそれはカテゴリーの話ではないのだと思う。
純文学にもクラッシックにも、「イイ物もある、ワルイものもある」(byスネークマンショー)。
ただそれだけだ。

カテゴリーと質がリンクしているようなネーミング自体がよくないのだと思う。
もっと本質的に、“娯楽のために作られるファブリック(製品)”を指す名前が必要なのではないかと、ずっと思ってきた。

ふと、今日そんなことをつらつら思っていたら、ポンと頭に落ちてきた言葉があった。
そのことについて、メモがわりに書いておきたい。

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「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人種)という言葉を提唱したのは、オランダの歴史家ホイジンガだ。

人間の行動にはすべての面において遊戯性が見られる=人間を特徴付けているのは「遊び」であるという主張。(この辺は僕の下手くそな説明より、松岡正剛さんのよくまとまった書評(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0772.html)があるので、こっちを読んでもらったほうが話は早いと思う。)

Homo Ludensはラテン語。
名詞形のLudus (ルードゥス)には、子供達の通う「学校」の意味も有るそうだ。
動詞の一人称単数形だとLudo(ルード)。すなわち「わたしは遊ぶ」。
読書も映画や音楽鑑賞も基本は一人遊び。
いわゆる生産性は無いが、「遊び」を消費していくことで愉しみ、そして学ぶ。
本を漁り、CDを聴き倒し、映画館に通うのも、言ってみれば一人遊びの学校だ。

この言葉のもつ語感、そして奥行きをそのまま、「遊ぶカルチャー」のネーミングとしていただいてしまってはどうかと思った。

Ludo Culture (ルード・カルチャー)。

ホントはラテン語で揃えてCulturaとすればいいのかもしれないけれど。あえて英語とラテン語を混成して日本的造語にしちゃおうと思う。その瑕瑾が正統を追求する「大文字」のカルチャーの堅苦しさを蹴飛ばして、POP感を醸す気もするからだ。

で、そんな言葉を作って何を言いたいのか?
もちろん自分の現場(戦場)をより明確にするためだ。

Live Wireでは、これまでもエンターテイメントとして映画や小説、マンガを創りだすクリエーターに数多く参加してもらってきた。たまに「ファンと作者が馴れ合っているだけのファンイベントだ」などと陰口を叩かれたりもするが、そんな自閉的なことをしているつもりはない。

モノ作りの前線に居る人間が何を考え、何を伝えるために、作品を編んでいるか。
作品をより深く読み解くためのサブテキストとしてのトーク。
一方それを消費するユーザーたちが作品にそれぞれの視点から当てた光が、作者の思惑以上の奥行きを作り出し、思わぬ成果を逆照射していく。その相互の思索の交差点を僕はLive Wireで作っているつもりだ。早い話、作り手と使い手がお互いに何を「面白い」と感じて「Ludo」しているか、ひとつの作品を挟んで対岸にいる両者が一緒に「遊び/学ぶ」場所にしてほしいのだ。

自虐的で自閉自足的な「サブカル」ではなく、「ルード・カルチャー」という呼び名に相応しいものをシーンとして扱っていきたい。

そこに誇りの持てる呼び名があれば、気概を前に立てることができる。
「遊びながら学び、学びながら遊ぶ文化」
それに自覚的でありたい。

ちなみに、色々調べていく中で知ったのだが、ラテン語にはこんな格言があるという。

「食べろ、飲め、遊べ、死後に快楽はなし」
Ede,bibe,lude,post mortem nulla voluptas.

さすが“ラテン系”。
人生に何か学ぶ事があるとしたら、今この時を面白がって生きてくこと以上の方法はないと思う。

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ただ、この「宣言」には唯一難点がある。

「遊び」なのにそんな力こぶを作ってムキになってどうよ? と。
力み返り過ぎて、野暮なんだよねどうも(笑)。

遊びが足りない=勉強不足。
「頑張ら」ずに、もっともっとLudoしなきゃ。