年は「毒」を飲み込む癖をつけようと思う。

他人から汚染されたと思い込んで反射的に吐いてしまう「毒」は、大半自身の身内から湧きでた澱と腐敗だということ。「毒」の主成分は、どんなにコーティングしても所詮責任転嫁と自己弁護。吐けば吐くほど、身の恥を外に晒すことにしかならない。

そもそも慌てて浄化しなければならないほど、身奇麗であった事もない。世間でどう思われようと構わないではないか。

他人を指差して吐く呪詛は、吐けば吐いた分我が身を腐らせる。それに比べれば、己の感じている不満や不穏など小さな事。そんなことにエネルギーを使うぐらいなら、無駄事は言わず、言い訳もせず。粛々と為すべきを為せばいい。誤解する人にはさせておけばいい。仮に己が偏見の被害に晒されることであっても、他人目の曇りを拭って回るのは、こちらの仕事ではない。

いちいち誤解や思い違いを正そうとするのは、所詮美術館の額縁の0.5度の傾きに神経をすり減らすのに等しい。

無駄なのだ。

勘違いする人、あるいは自分のしくじりや不利益を誤魔化そうとして他人を巻き込もうとする人間には、それぞれの表向きの言い分とは違う意図がある。無意識にそういうツケを他人に回して楽をしようという人間も居る。いずれにせよ、それは利害の問題であって、義の在り処を説いても、通じることはない。

むしろ相手の土俵に引きずり込まれて、コスい伝票の押し付け合いに参加させられていることになる。

「話せば判る」と考えるのはあくまで性善説。
そもそもその流派には属していなかったはずではないか。

そんなくだらない押し問答に時間やエネルギーを使うより、「利用されてやる」ぐらいのハラで手を動かして、とっとと愁嘆場を抜け出す方が早い。これまで、他人の思惑には乗るまい、流されまい、それが自分のやり方を際立たせる方法だと、散々世の流れに抗ってきた。だが、そのどこにクリエイティビティがあったか。何を成し遂げたか。甚だ疑問だ。

人は人との関わりでしか生きられない。そして社会は、だれが制御するでもない大きな奔流のようなものだ。

その渦の中で「利用されまい」と目を閉じ、耳を閉じ、歯を食いしばって頑なさだけを全力で表現している人間に、何の魅力があろうか。むしろ捕まりやすく、利用できる人間は山ほどいる。市場はそうした思惑の接点から生まれる。そのすべてを「自分流」でコントロールしようと考える事自体が傲慢だし、またその身構え自体が滑稽だ。

自分から気易さを押し売りに行く必要はないが、たまたま袖の摺りあった人間に、いちいち猜疑心丸出しで接して、隙きあらば噛み付こうとするような険しい了見で接する必要は全然ない。

タダ働き結構。望まれれば、できること、できないことを切り分けて、できることをやる。成果があがれば次に進み、相手の労苦を察することが出来ない人ならば、さっさと歩み去る。それでいい。そこに自分の心労や呪詛を書き連ねる手間まで加えるのは、泥棒に追い銭ではないか。

タダ働きでストレスがたまるとしたら、臥薪嘗胆が身についていない証拠。他人はそこまで自分に親切ではないし、また君は王子様ではないということだ。生じた損害が度を越して大きいなら、関わらずに歩み去れば済む話。オメラスから引っ越す人間が、それまでの被害を戀々と書き連ねたり、逆にこの先かつての隣人が吐くであろう意地悪を気に病んでうじうじしていてどうする。

足抜きをする時は迅速かつ、徹底的に遠くへ、が原則だ。

陋巷に生まれて朽ちていく身なら、他人のノイズをいちいち制御しようとするのは無駄だとそろそろ気づいた方がいい。
瑣末事にいちいち足を止めることはない。大事なのは、足を止めず自分本来の歩幅で前に進むことだ。


すなわち「俺のために作られたのではない他人の街」で暮らす腹をもういちどしっかり身に刻む一年にしよう、ということ。

老いていく身に吹く風は、これからどんどん冷えていく一方なのだから。議論や陣取り、そしてメンタルケアの為の愚痴吐きにいちいち時間を使っている暇はないのだ。