界隈では、作品タイトルを妄想ネタにする案件が物議を醸しているが、作家性や入手困難というコンテキストと結びつけて、中身を勝手に思い巡らすのは「購入前の喜び」や「積ん読の悦楽」と同じ行為で、読書人なら誰でもやっていること。

さらに「異化されたテキスト」としてアウトプットするのも、もちろんアリだと思う。
そもそもオマージュであったり、先人の提示したテーマを踏まえて別解答を導く作業というのは、ほぼ総ての創作物/創作者が経るプロセスであって、先例や叩き台なしに「100%自家製」で宙からオリジナルを掴み出せる天才のほうが例外だろう。

イトルと本文をセットにして読ませたい、不可分であると製造者が主張しても構わないが、世にはケーキを買ってデコレーションのチョコしか食べない自由もある。

それどころか、包装紙だけ手に入れてご満悦、あるいは仮面ライダースナックよろしくオマケだけ入手して、本体の袋菓子は投棄という消費態度も許されるのが、自由市場の流通に商品を任せた、コンシュマービジネスの鉄則ではないのかな。

まして「絶版状況は作者の望んだものではない。敬意に欠ける」と頼みもしない無料マウントをカマしてくるクレーマー心理は理解できない。絶版が恥と捉えるのは、作家自身の問題なので。


もそも、初めてこの案件を耳にした時頭に浮かんだのは、筒井康隆の『色眼鏡の狂詩曲』だった。
確かにあの作品に、“アメリカに対する敬意”など微塵も感じられない。

さて、合衆国憲法修正第1条を高々と謳う米国政府が『アルファルファ作戦』を絶版にしろ、焚書にしてしまえと騒いだりするかね?

誰がピエロかは、明白だと思う。