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Live Wire/Highvoltage Cafe Owner's blog

2018年01月

9 1月

毒を飲む/「利用されやすい人」になる

年は「毒」を飲み込む癖をつけようと思う。

他人から汚染されたと思い込んで反射的に吐いてしまう「毒」は、大半自身の身内から湧きでた澱と腐敗だということ。「毒」の主成分は、どんなにコーティングしても所詮責任転嫁と自己弁護。吐けば吐くほど、身の恥を外に晒すことにしかならない。

そもそも慌てて浄化しなければならないほど、身奇麗であった事もない。世間でどう思われようと構わないではないか。

他人を指差して吐く呪詛は、吐けば吐いた分我が身を腐らせる。それに比べれば、己の感じている不満や不穏など小さな事。そんなことにエネルギーを使うぐらいなら、無駄事は言わず、言い訳もせず。粛々と為すべきを為せばいい。誤解する人にはさせておけばいい。仮に己が偏見の被害に晒されることであっても、他人目の曇りを拭って回るのは、こちらの仕事ではない。

いちいち誤解や思い違いを正そうとするのは、所詮美術館の額縁の0.5度の傾きに神経をすり減らすのに等しい。

無駄なのだ。

勘違いする人、あるいは自分のしくじりや不利益を誤魔化そうとして他人を巻き込もうとする人間には、それぞれの表向きの言い分とは違う意図がある。無意識にそういうツケを他人に回して楽をしようという人間も居る。いずれにせよ、それは利害の問題であって、義の在り処を説いても、通じることはない。

むしろ相手の土俵に引きずり込まれて、コスい伝票の押し付け合いに参加させられていることになる。

「話せば判る」と考えるのはあくまで性善説。
そもそもその流派には属していなかったはずではないか。

そんなくだらない押し問答に時間やエネルギーを使うより、「利用されてやる」ぐらいのハラで手を動かして、とっとと愁嘆場を抜け出す方が早い。これまで、他人の思惑には乗るまい、流されまい、それが自分のやり方を際立たせる方法だと、散々世の流れに抗ってきた。だが、そのどこにクリエイティビティがあったか。何を成し遂げたか。甚だ疑問だ。

人は人との関わりでしか生きられない。そして社会は、だれが制御するでもない大きな奔流のようなものだ。

その渦の中で「利用されまい」と目を閉じ、耳を閉じ、歯を食いしばって頑なさだけを全力で表現している人間に、何の魅力があろうか。むしろ捕まりやすく、利用できる人間は山ほどいる。市場はそうした思惑の接点から生まれる。そのすべてを「自分流」でコントロールしようと考える事自体が傲慢だし、またその身構え自体が滑稽だ。

自分から気易さを押し売りに行く必要はないが、たまたま袖の摺りあった人間に、いちいち猜疑心丸出しで接して、隙きあらば噛み付こうとするような険しい了見で接する必要は全然ない。

タダ働き結構。望まれれば、できること、できないことを切り分けて、できることをやる。成果があがれば次に進み、相手の労苦を察することが出来ない人ならば、さっさと歩み去る。それでいい。そこに自分の心労や呪詛を書き連ねる手間まで加えるのは、泥棒に追い銭ではないか。

タダ働きでストレスがたまるとしたら、臥薪嘗胆が身についていない証拠。他人はそこまで自分に親切ではないし、また君は王子様ではないということだ。生じた損害が度を越して大きいなら、関わらずに歩み去れば済む話。オメラスから引っ越す人間が、それまでの被害を戀々と書き連ねたり、逆にこの先かつての隣人が吐くであろう意地悪を気に病んでうじうじしていてどうする。

足抜きをする時は迅速かつ、徹底的に遠くへ、が原則だ。

陋巷に生まれて朽ちていく身なら、他人のノイズをいちいち制御しようとするのは無駄だとそろそろ気づいた方がいい。
瑣末事にいちいち足を止めることはない。大事なのは、足を止めず自分本来の歩幅で前に進むことだ。


すなわち「俺のために作られたのではない他人の街」で暮らす腹をもういちどしっかり身に刻む一年にしよう、ということ。

老いていく身に吹く風は、これからどんどん冷えていく一方なのだから。議論や陣取り、そしてメンタルケアの為の愚痴吐きにいちいち時間を使っている暇はないのだ。

5 1月

この時代の「公共」は、もう「政治」ではないということ

「イデオロギー」とは何か。
煎じ詰めれば、「イデア」で他者を「オルグ」して、右であれ左であれ「個人を群体のなかに取り込んで動かそうとする」暴力装置に他ならないと僕は考えている。

演説好き・説教好きのおじさんイデオローグが嫌われるのは、その抑圧構造を理解しないで押し付けようとするからだと思う。

この時代のコンセンサスが、どんな卑小な思想、どんな醜い欲望であれ、個人を出発点にして、個人で完結するものとして成り立ち、「公共領域」はイデオロギーに汚染されない完全中間領域であることを認めた、個による、個のための、個の時代であることを認識できていないからだ。

その変化を意図的にスルーしているのか、あるいは「都合の悪い真実」は頭に入らないフィルターでもついているのか、彼らは相も変わらず、「政治」(=党派性)を武器に、中間領域を認めず、「オルグ」に精を出す。

「現実派」として「世界を正す」ためには、数の論理が絶対であると信じているのは、右も左も同じである。とにかく「仲間」を募り、多数決で勝負を決してしまおうと、「組織化」にリソースをつぎ込む。

要するに世界を陣取り合戦の盤面と考えて、そのコマに他人を取り込もうとするのが「正義」と信じてやまないわけだ。

しかし、それは本来個の権利と自由とは反するものだとは思わないだろうか。
「イデオロギー」を束ねることは、どんなやり方をしても、結局「小異を捨てて大同につく」ことに徹する方法論でしかない。要するに、「大義のために個々人の事情は放り出せ」と迫るやりかたなのだ。個々人がでたらめ勝手に望みを抱き、好きなことをする自由を押さえ込むのは、どんな正義を看板に据えていてもファシズムでしかない。

本来、社会とは「バラバラ」の人間が「好き勝手」をした結果、アブストラクトアートのように浮かび上がってきた「結論」であろうと考える。無論、暴力や殺人などの「個人の権利」の枠を超えた逸脱を定義した段階で、一定の足枷は生じるが、それは左右の思想の如何にかかわらず公約数的に、「最低限の取り決め」として不可侵条約が結べるはずだ。

その歩留まりを「公共」のベースと考え、それ以上に他人のやり方には干渉しない。


当たり前といえば当たり前の考えが、ようやく一般感覚化しつつあるのかなと思う。

旧来のイデオローグが遠ざけられるのは、“若い連中”が「天下国家」を考えないからではない。ーーその暴力的な占有願望が、右であれ左であれ、21世紀ネイティブの世代には単なる誇大妄想にしか映らないからだと思う。

そう。もう時代は「政治」の時代ではないのだ。

共感や共闘は成立しても、それはユニット単位、アーティクル単位で、組まれ、そして役割を終えればさっさと解体され、再び個人は個人に戻る。特定の党派の「色の付いた」人間は存在せず、各論で離合集散する、より即時的な多数決が、たゆとう波のように現れては消え、寄せては返すのが、この時代のスタンスなのである。

それは従来的な意味での「政治」とは違う。

公共の場をあくまでニュートラルゾーンとしてのパレットと認識する距離感であり、「利便」に徹した方法論だ。

「ひとつの問題」が片付けば、そこに長居はしない。またパーソナル空間に戻って、己の営為に専念する。

他者との軋轢や、社会共通の課題が生じた時には、他人任せにせず自分の主張や立場を明示するが、「共闘」は問題単位で切り分け、束ねて党派の問題として持ち続けない。

そこには正義も悪もない。衝突しないための「交通整理」だ。

エゴが公共と衝突することはあっても、それはある命題に関しての「公共規範」との相対的な立ち位置の偏差でしかなく、絶対性はない。多重のレイヤーで、各論にポジションを持った個人が、その複雑な重ね合わせでポジションを取り、時々刻々と変化する社会に対応しているのが現代なのだと思う。

ビッグデータとして、人心の瞬間の「旗色」は認知できても、そのデータが永続的に統計の真実を告げることはない。

そういう時代に生きていることを、潔く認めようとしない「昭和おじさん」は常に定点を求めたがり、その傲慢さと無神経故に邪魔者扱いされてしまうのだ。

「政党政治」とは結局、数を束ね、多数の委任票を背景に、国家の舵取りに一つの共通性・一貫性を維持していこうという発想だ。だが人の移ろいやすい気持ちや、様々な有り様を許容する「多様性」はそれでは守れない。

常に「最大公約数」の鎌で「小異」を切り捨て、ブレを削っていくのに汲々とすることになる。
そのために「切り捨てられる」悲鳴の問題をどこまで勘案するかとなると、問題解決は「場当たり」になり、一貫性を欠く危険が大きくなる。

だが、それでいいのではないのかとも思う。
いちいち一億を超える国民の総意を各論で確認していたら、国家運営のスピードが落ちるーーというのがこれまでの思想だったと思うが、その時間的ギャップ、そして総意の反映自体を測るシステムがなかっただけのことだ。代議制はそのために存在したが、いまやITは大衆の総意を瞬時にまとめ上げ、形にすることを可能にしている。

無論そこからテーマを抽出し、ある程度の解決方法を見定める「スペシャリスト」は必要だと思うので、「政策考案者」としての「行政」と「立法」のプロは必要だろう。ただ彼らがリソースの大部分を費やしてきた「総意の取りまとめ」(早い話が「票集め」と「党内外の政治」)は、もうしなくていいのではないかと思う。

これからの政治家と官僚は、ビッグデータ的に抽出された「バラバラ」な国民の「総意」に沿って、それを具体化する仕事に邁進すればいい。

事実、「党派性」に沿おうとしない、21世紀の日本人たちはそれを望んでいると思うのだ。

だから、もう「我々」を主語に、思想信条を数に束ねる作業はパスしていい。(無論、合理性を説く、政策プレゼンテーションはすればいいが、それは常に各論をベースにした是々非々で進むのが最低限のルールとなるはずだ。)

平成を経て次の元号に時代が推移していく中で、「我々の時代」は確実に終わりつつある。

残りの余生を「俺の時代」として生きる覚悟を固め、その有り様に対応しない限り、もう昭和生まれの「我々」に居場所はない。

この代名詞を使うことも諦めて、「私」と時代のクリッピングポイントを探すーー水に逆らわない魚の生き様を身に着けねばなるまいと思う。またそのほうが遥かに自由だとも思うのだ。

2 1月

高田純次と赤木春恵と団次郎のいる宇宙(『スターウォーズ Ep.8』ネタバレ感想)

セルフお年玉に、元旦はスタハチ(SW8)@大阪万博フルサイズIMAXへ。

以下ネタバレ気味だが、ざっと文句を書く。(見てない人にはあまり意味がわからないように書くつもりなので、判読キーとしてやはり鑑賞後にお読みいただければ幸い。)

まず、メインストーリーのマッチョ高田純次の闇落ち葛藤は、爺様の金山一彦の時のそれと比べると正直身に迫るものがなかった。(対する牧瀬里穂の抵抗も、なんか記号的でピンとこない。)

あと、これはいつものことだが一連のシス設定のぞんざいさにも焦れた。ジェダイの歴史と伝統には散々時間を割くくせに、光と影として同じバランスで対置されているはずのシスの教義描写はあまりに薄い。使徒の相関関係にも哲学にもまったく時間を費やさず、「なんか気味悪い人達だから悪人」と言わんがばかりの蝋燭チックな造型のみで役割分担を済まそうとするのは、悪しきパターナリズムの典型。

その点Ep1〜3には、宮尾すすむの共和国議長/銀河皇帝一人二役=シスの具体悪のエピソード、ルーカス自身の「悪とは何か」という思想が投影されていてリアリティの範疇にあったが、ディズニーSWではそれがぽっかり欠け落ちているので、結果ジェダイ側の苦悩も表層的な「哲学ごっこ」以上に深まっていかない。口先だけの観念道徳劇になってしまっていて、(エンタメ的匙加減はわかるが)俺個人には乗れない感じが残った。

無論、四ヶ所のモジュラー劇をコンパクトに纏めたライアン・ジョンソン監督の力量は否定しない。だが、その力技のために、描写不足に思える部分が多々ある(牧瀬里穂がロクな訓練も受けないままあっという間にジェダイ化してしまったのは、ジェダイアカデミーの全否定ではないかとも思う)。

エグい話はもう十分だという人も多いかもしれないが、団次郎の学級崩壊との戦いも描写不足。リトル高田純次の悪魔っこぶりをワンエピソードだけでも入れるべきだったと思う(でないと『悪の教典』の生徒虐殺話で、闇落ちしたのは団次郎の方という話になってしまうーー実際そうだともいえるが)。

逆に赤木春恵の空中浮揚は尺の無駄。司令官入れ替え劇のために必要だったエピソードかも知れないが、普通に怪我させて寝かしとけばイイじゃんな話。(まさかあそこで『宇宙からのメッセージ』へのリスペクトシーンを見せられようとはw)修行を経ない超能力者が出て来すぎて、フォースのインフレ感が著しい。

あと、もう皆さん散々ツッコミ済みだと思うので、冒頭爆撃シーンの自由落下問題は俺が今更滔々と語る話ではないにしても、ちょっと宇宙舐めんなよ感は拭い難い。

天童よしみ+ブラック高嶋政宏の部分のエピソードは、スカイウォーカー家のお家騒動にローグワン成分を持ち込んだ、ディズニーSWの自己主張なのだと思うが、ぶっちゃけ、バッサリ切っても全然成立する要素ではないか。

ねっちりした宮廷劇因縁話とチャンバラだけ見ていたい時代劇脳の俺には、名も無き戦士の現場話との混在が腹にもたれた。フレンチのフルコース食いに来たら、合間合間に牛丼やカレーが出てくる感じで、水と油感が拭えない。(ルーカス期のハン・ソロの跳梁などはあくまで特権的なトリックスターの話なので、逆に削るとおかしくなるが)

そんなこんなで、機械的プロット優先、ディテールのボヤけた残念な作品に思えた。やはり当方は、過剰にエモーショナルでモダンさに欠けた、テンポ悪く暗く陰鬱で逃げ場のないEp1〜3=穴禁三部作が一番肌に合うタチらしい。

十分鑑賞料金分以上には楽しんだが、まあ通過点といったところか。

とりあえず最終評価は、98歳まで生きてEp30を見届けてからにしようw

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