「イデオロギー」とは何か。
煎じ詰めれば、「イデア」で他者を「オルグ」して、右であれ左であれ「個人を群体のなかに取り込んで動かそうとする」暴力装置に他ならないと僕は考えている。

演説好き・説教好きのおじさんイデオローグが嫌われるのは、その抑圧構造を理解しないで押し付けようとするからだと思う。

この時代のコンセンサスが、どんな卑小な思想、どんな醜い欲望であれ、個人を出発点にして、個人で完結するものとして成り立ち、「公共領域」はイデオロギーに汚染されない完全中間領域であることを認めた、個による、個のための、個の時代であることを認識できていないからだ。その変化を意図的にスルーしているのか、あるいは「都合の悪い真実」は頭に入らないフィルターでもついているのか、彼らは相も変わらず、「政治」(=党派性)を武器に、中間領域を認めず、「オルグ」に精を出す。

「現実派」として「世界を正す」ためには、数の論理が絶対であると信じているのは、右も左も同じである。とにかく「仲間」を募り、多数決で勝負を決してしまおうと、「組織化」にリソースをつぎ込む。

要するに世界を陣取り合戦の盤面と考えて、そのコマに他人を取り込もうとするのが「正義」と信じてやまないわけだ。

しかし、それは本来個の権利と自由とは反するものだとは思わないだろうか。
「イデオロギー」を束ねることは、どんなやり方をしても、結局「小異を捨てて大同につく」ことに徹する方法論でしかない。要するに、「大義のために個々人の事情は放り出せ」と迫るやりかたなのだ。個々人がでたらめ勝手に望みを抱き、好きなことをする自由を押さえ込むのは、どんな正義を看板に据えていてもファシズムでしかない。

本来、社会とは「バラバラ」の人間が「好き勝手」をした結果、アブストラクトアートのように浮かび上がってきた「結論」であろうと考える。無論、暴力や殺人などの「個人の権利」の枠を超えた逸脱を定義した段階で、一定の足枷は生じるが、それは左右の思想の如何にかかわらず公約数的に、「最低限の取り決め」として不可侵条約が結べるはずだ。

その歩留まりを「公共」のベースと考え、それ以上に他人のやり方には干渉しない。


当たり前といえば当たり前の考えが、ようやく一般感覚化しつつあるのかなと思う。

旧来のイデオローグが遠ざけられるのは、“若い連中”が「天下国家」を考えないからではない。ーーその暴力的な占有願望が、右であれ左であれ、21世紀ネイティブの世代には単なる誇大妄想にしか映らないからだと思う。

そう。もう時代は「政治」の時代ではないのだ。

共感や共闘は成立しても、それはユニット単位、アーティクル単位で、組まれ、そして役割を終えればさっさと解体され、再び個人は個人に戻る。特定の党派の「色の付いた」人間は存在せず、各論で離合集散する、より即時的な多数決が、たゆとう波のように現れては消え、寄せては返すのが、この時代のスタンスなのである。

それは従来的な意味での「政治」とは違う。

公共の場をあくまでニュートラルゾーンとしてのパレットと認識する距離感であり、「利便」に徹した方法論だ。

「ひとつの問題」が片付けば、そこに長居はしない。またパーソナル空間に戻って、己の営為に専念する。

他者との軋轢や、社会共通の課題が生じた時には、他人任せにせず自分の主張や立場を明示するが、「共闘」は問題単位で切り分け、束ねて党派の問題として持ち続けない。

そこには正義も悪もない。衝突しないための「交通整理」でしかないのだ。

エゴが公共と衝突することはあっても、それはある命題に関しての「公共規範」との相対的な立ち位置の偏差でしかなく、絶対性はない。多重のレイヤーで、各論にポジションを持った個人が、その複雑な重ね合わせでポジションを取り、時々刻々と変化する社会に対応しているのが現代なのだと思う。

ビッグデータとして、人心の瞬間の「旗色」は認知できても、そのデータが永続的に統計の真実を告げることはない。

そういう時代に生きていることを、潔く認めようとしない「昭和おじさん」は常に定点を求めたがり、その傲慢さと無神経故に邪魔者扱いされてしまうのだ。

「政党政治」とは結局、数を束ね、多数の委任票を背景に、国家の舵取りに一つの共通性・一貫性を維持していこうという発想だ。だが人の移ろいやすい気持ちや、様々な有り様を許容する「多様性」はそれでは守れない。

常に「最大公約数」の鎌で「小異」を切り捨て、ブレを削っていくのに汲々とすることになる。
そのために「切り捨てられる」悲鳴の問題をどこまで勘案するかとなると、問題解決は「場当たり」になり、一貫性を欠く危険が大きくなる。

だが、それでいいのではないのかとも思う。
いちいち一億を超える国民の総意を各論で確認していたら、国家運営のスピードが落ちるーーというのがこれまでの思想だったと思うが、その時間的ギャップ、そして総意の反映自体を測るシステムがなかっただけのことだ。代議制はそのために存在したが、いまやITは大衆の総意を瞬時にまとめ上げ、形にすることを可能にしている。

無論そこからテーマを抽出し、ある程度の解決方法を見定める「スペシャリスト」は必要だと思うので、「政策考案者」としての「行政」と「立法」のプロは必要だろう。ただ彼らがリソースの大部分を費やしてきた「総意の取りまとめ」(早い話が「票集め」と「党内外の政治」)は、もうしなくていいのではないかと思う。

これからの政治家と官僚は、ビッグデータ的に抽出された「バラバラ」な国民の「総意」に沿って、それを具体化する仕事に邁進すればいい。

事実、「党派性」に沿おうとしない、21世紀の日本人たちはそれを望んでいると思うのだ。

だから、もう「我々」を主語に、思想信条を数に束ねる作業はパスしていい。(無論、合理性を説く、政策プレゼンテーションはすればいいが、それは常に各論をベースにした是々非々で進むのが最低限のルールとなるはずだ。)

平成を経て次の元号に時代が推移していく中で、「我々の時代」は確実に終わりつつある。

残りの余生を「俺の時代」として生きる覚悟を固め、その有り様に対応しない限り、もう昭和生まれの「我々」に居場所はない。

この代名詞を使うことも諦めて、「私」と時代のクリッピングポイントを探すーー水に逆らわない魚の生き様を身に着けねばなるまいと思う。またそのほうが遥かに自由だとも思うのだ。