「リベラルの不寛容」には非常に深く頷くものがある。

「知」とは元々分類し、整序する方法論なので、半端な知識人ほど、他者の「あるがまま」を受け入れる懐がない。

常に「ボクの解釈」の付箋をつけたがるし、一旦カテゴライズしたものは動かしたがらない。特に安易なレッテル貼りを許さない動的な多様性や、重層的なレイヤーを持った相手が苦手。

早い話がバッカスとエロティシズムには弱い。

「わからないもの」には極めて排他的になるので、異性とパーティピーポー、そして実態経済には極めて点が辛くなるのだ。

潔癖といえば潔癖なのだが、単に朴念仁なだけでなく、心ひそかに己の裡なる欲望とカオスに恐怖感を抱いているため、他人の欲望を叩く事で、「ボクの中の幽霊」の不安を解消しようとするから、妙に攻撃的でもあり扱いづらい。

本来の知性とは、混沌と折り合いをつけるバランスを見つけ、より生きやすくする適合性の追求のはず。己とイデオロギーの異なる相手といかに共存するか、共栄のヴィジョンを提示できるかが、本来の「政治」ではないのかと思う。

「僕の持ったピースがハマらない世の中は、駄目なパズル」と駄々をこねてしまう「パズル上手」のお猿さんしか育ててこられなかった事が、我々の敗因なのかもしれないなと思う。

真の知性の持ち主は、サバイバル上手で博愛主義者であり、目先の功利や整序ではなく、70億の共栄を本気で追求する「非例外主義」者だと思う。

その意味では、安倍やネトウヨすらも、「我らが友なる敵」と捉えねばならないし、もちろん頭の固いリベ潔癖症くんも排外対象にしてはならない。