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TVドラマ

31 12月

『エルピス─希望あるいは災い』の欺瞞。あるいは感動ポルノの災い




般、話題のドラマ『エルピス──希望あるいは災い』の放送が終了し、かなり評判がいいようですね。でも本当にそこまで熱狂的に評価されるべき作品かな? と思っており。

上記の引用記事はその流れに棹さした珍しいものだったので、わたくしはブンブンうなずき、ここにも貼っつけましたが、まだちょっと悪口が言い足りないのでお付き合いを。

ほんと、正直に伺いたいんですが、ご覧になった皆さんはいかがでしたか?
(見てない方には特にオススメはしませんが、一応U-nextの配信でまだ見られるようです) 
全編見終わって、感動した、良かった、続編楽しみ──という感想の人とは多分一生話が合わないのでは、とおもうぐらい、わたしにはハマりの悪い話でした。

今回、関西テレビに移籍してまでこのドラマを実現させようとした、プロデューサー佐野亜裕美さんの硬骨漢ぶりと思い入れが、早々にインタビュー記事とかで喧伝され、コンテキストとして高評価の上げ潮材料となってますね。作品は急速に神格化されていっているように思います。(多分視聴者の何%かは、ドラマの主人公たちと、この佐野さんのエピソードを重ねても見ているでしょう。)

評論記事も概ね、この逸話を踏まえて「テレビ内部から生まれたテレビ批判の物語」としての絶賛が飛びかっているように思えます。でも、わたしは「テレビのナカノヒトの自己弁護/むしろ賛歌」にしか受け取れず、こうした解釈は、茶番にしか見えなかったのです。


■『エルピス』の仕掛けるトリックの正体=さらに隠蔽された忖度

のドラマの支持側の気分の背景にあるのは、安倍政権十年のメディア支配でしょう。政治におもねった報道をしてしまったと後悔するヒロインの回想シーンとして、東京オリンピックや東日本大震災を伝えるニュース素材を引用しており、エッジの立った演出と褒めている記事も見かけました。

でも、それらの報道が、政権にすり寄った偏向報道で、具体的にメディアが「どう伝えたか」、「どの部分が偏向していたか」という検証には踏み込んでいない。

あの演出はあくまで表面的なクスグリであって、何も問題を具体化していないのです
視聴者側のふんわりとした共感──「だよねえ、あの頃おかしかったよね!」という気分を引き出しただけで、ちゃんとその罪を具体化したわけではないのです。

でも、ドラマはそこでぐっと支持率を高めている。その気分の背景には、視聴者側の「正義希求バイアス」みたいなものがあったように思います。

当時味あわされたイヤな気分の反動で、このドラマに<仲間意識の共有>せずにいられなくなる仕掛けです。でも、<言ってないのに言われたような気がした>ということは、ムードで補っているだけ
の逃げなんですよね。


れって、要するにサブリミナル共感じゃないですか?
「言質を取られない」=責任追及されにくい。 
こういう責任の所在をあいまいにするやり方=やり逃げは、問題が大切なことであるだけに、本当に危険だなあと思っているわけです。

具体的に言えば「テレビがきちんと自己批判した」わけじゃないんです。何をどうして、日和った報道に傾いたかのメカニズムも、関わった人間たち自身の選択の理由も描かれてはいない。腹をくくった、タブーブレイキングではなく、あくまで<局内のおエライさんの目をかいくぐって、僕らは頑張ってるよ>という目くばせでしかない。

そこに「批判性」は明記されていないのに、タブーに踏み込んだ“気分”だけが醸成されている。
誠実な「テレビの自己批判」をやる気があるとは思えないやりかただと思いました。

「テレビのナカノヒトの中にも話がわかる人間がいますよ」
「今は頑張っても、正面突破なんか出来ない状況ですけど、そのうちがんばりますね」

というほのめかしでしかない。

え、なんで今じゃないの?

「原発報道が嘘っぱちでした、大本営発表を横流ししました」とか、
「コロナの渦中のオリンピック報道は、国の方針に盲従してました」とか

とはっきり言えないのは、まだ厳然と忖度がある事を示しています。
このドラマは、乾坤一擲の敵中突破ではないわけです。
悲壮感を漂わせていても、実はそこまでヤバいことはいっていない。
それが『エルピス』の仕掛けているトリックだと。

早い話が、これはフェミニズム運動で言うところの名誉男性──体制内に「例外」を取り込んで、目立たせる<批判の舌鋒を鈍らせるための広告塔>にしかなっていない。

当時、わたし自身も安倍批判派であったので、あの政権と当時のメディアの忖度ぶりに対する嫌悪感は人後に落ちないつもりです。

でも、このドラマがトリートメントになるとか、批判劇としてあの時代のテレビのあり方にきっちり落とし前をつけたものと思うかといわれると、それはそれこれはこれで、NOとしか言えないわけです。


テレビがやるテレビの話の<テレビ描写がウソだらけ>、の謎

もそもこのドラマ、いわゆる「リアルさ」売りで推されてますが、実際どこまでリアルだと思われますか?
わたし自身、かつてテレビ報道を職業にしていたので、特に点が辛くなってしまいます。このドラマには、
プロット破綻やキャラの性格のねじれといった「ドラマ上の致命傷」もかなりありますが──それは後にゆずるとして──ざっと見ただけでも、かなり無理というかトンデモ展開=現実的に無理じゃね? っていう設定破綻がけっこうあるように思えます。

正直、お話を成り立たせるための現実無視がひどくて、脚本家も演出サイドも、そして考証の人
(いるのかな?)も、取材をサボったんじゃないかしらと感じる部分が多いのです。
えば、主人公たちは、冤罪事件を証明するための取材に、勝手に会社のカメラ使ってますよね? でも機材持ち出しって、現実的にはそんな気楽にできるもんじゃないですよ。

デジタル化でいくら安くなったとはいえ、放送用のスペックの機材ですからそれなりにけっこうな額しますし、制作スケジュールに合わせて次々使い回す物です。あくまで会社の資産ですから、メンテやリースの償却も考えて運用台数も決まってて、ADが勝手に持ち出して好きに使い回せるわけもない。まして、
経理に飛ばされた後の岸本(眞栄田郷敦)が、制作の機材カメラをノーチェックで持ち出したりできるわけもなく。

彼の私物ですか? そういう描写はなかったような(見落としであったら謝ります)。 上司に通していない勝手な取材の時間をどうやってひねり出したかも謎展開です。サラリーマンですから、若手ADなんか特に細かい制作スケジュールを切られて、あっち行け、こっち行け、取材だ編集だに時間びっしり縛られる。会社のスタッフルームで寝袋で寝なきゃ間に合わないような生活が続くから、奴隷労働だって言われるわけで、おいそれと趣味の取材で他府県まで足伸ばして何回も何回も取材なんてとても無理。毎週長尺の深夜番組作ってる合間に、あんな呑気なことしてたら即座に本業破綻します。 アナウンサーの浅川(長澤まさみ)も、週にレギュラー+単発ニュース読みの泊まり勤務まで回ってくるわけですから、まずあんな自由な取材など出来ないはずです。世間的に局アナは、原稿を読むだけでチヤホヤされるお気楽な身分とお思いでしょうが、決してそんなことはありません。

ニュースキャスター復帰後、急に激務が襲ってきたような描写がありますが、局アナは稼働率高いのが普通。レギュラーが少なくても、小仕事には事欠かない。むしろイレギュラーで忙しい。それなりに実力あるあの年代の中堅アナは、タレントやフリーを呼ぶみたいに個別でギャラも発生しませんし、むしろ引っ張りだこのはず。勤務時間中に遊んでる暇など(そんなに)ないのです。

終回、ぶっちぎれた浅川が暴露原稿放送中に読むよなんて脅しは、サスペンスを生む仕掛けですから、現実性をガン無視しての設定では意味がないわけです。

でもね、実はあんなもん、デスクが電話一本で代わりの局アナ呼ぶだけで瞬殺です。「キャスターの浅川アナは今日は体調不良でお休みさせていただき、私、◯◯がお届けします」のおことわり一言で排除できるわけですから。

それぐらいチャチな仕掛けであることを、現役のテレビのナカノヒトである佐野さんがわかってないはずがない──ですよね?
そういえば、最初の暴露ニュースヴィデオ放映のトリックだって、かなり無理筋で。
本物の編集済み素材には、ちゃんとファーストカットのアバン部分に特集やニュースの個別タイトルを打ち込んだものが納品されますから、コーナータイトルしか入ってない、得体のしれないヴィデオを放置するような事故は、まず起きません。そのためのチェック体制ですし、画面見ただけでキューシートと内容が違う素材を、スイッチャーも拾わないと思います。

作中の架空の局ではどういう放送体制だったか知りませんが、わたしのいた局ではヴィデオ素材の管理に、一人当番のバイトが張り付いてて、放送中の緊急の差し替えとかにも対応してますから、あんなユルい作戦で騙すのは絶対無理だと思う。


災い=独りよがりなハイテンションに込められた自己満足の匂い
の業界を覗き込んで描く「他所様」の話ならともかく、自分たちのホームであるテレビ局の腐敗を描こうとするドラマなら、もっと細部まで考証をきちんとやるべきではないですか? ましてリアリズムが売り、現実に肉薄したドラマと騒ぐなら。脚本家さんが多少放送現場に疎くても、数日制作現場やスタジオを見て回るだけで大体の取材自体できると思います。

なのに、かなり本筋に関わる部分まで、細部は雰囲気任せのファンタジー仕様。ユルさが拭えておらず。プロダクションに丸投げした作品ならまだしも、ちゃんとした局制作の作品なの? と疑問になります。

一般視聴者でも「なんで?」と思うようなこんな不自然なエピソード設定で固めてしまっていては、スムーズに物語に没入することは出来ないし、むしろユルさで物語の興を削ぐだけだと思いますが、その手の鉄則をこのドラマはまるで構わずすっ飛ばすのがなんとも気持ち悪い。

あれやこれやの描写が現実を無視した設定で、無理くり成立させられている印象です。エンタメとしてのミステリやアクションのドラマであるならまだしも、シリアスな、それもメディア批判という重要なテーマを孕んだ物語で、この方法論を押し通したのは、非常に危ういやり方だと思いました。

わたしが列記したような傷をテコに、物語のリアリティを問われる=批判された側が「ただの作り話だよ」と反論できる余地を遺してしまっていているし、視聴者にもユルめのファンタジーであることを見抜かれてしまう

冒頭に引用した文春の記事にも、製作者側の安易で雑な現実の取り込み姿勢が指摘されていましたが、この作り込みの甘さは、ホントは故意の姿勢表明なんじゃないかという勘ぐりすら湧いてきます。

るで「そんなちっちぇえことはどうでもいいんだよ!」と喚く傲慢なヤンキーのように──この番組全体に横溢する「ヲレの重大事は別にある」的な独りよがりなハイテンションが、この番組全体に漂う危うさを加速させているようにも思います。

そして、<ツッコミどころ満載>のファンタジー感を放置しておく姿勢には、ある既視感が蘇ってきます。作中で浅川たちが冤罪報道をすっぱ抜いた直後、番組の中間管理職の<おじさん>たちの嫉妬を躱すため、浅川が異常なコビを売ってみせるシーンです。

歯向かわれた内部の敵に対して、「僕らは反逆者なんかじゃないですよ」と示す過剰な身振り。──ドラマですもん、嘘っぱちに決まってるじゃないですか。プロが見れば明らかにわかる傷を残すことで、本気感の欠如を作品に刻んで、言い訳の余地を残すやり口ではなかったか、と。

まさかとは思いますが、そういう姿勢があるんだとしたら、作品タイトルにある“希望”なんかどこにもない、むしろただの“災い”でしかないなと感じます。 して、これは余談(そして予断)になりますが──プロデューサーの佐野さんの古巣であるTBSが、このドラマ制作にGOを出さなかったのも、単に身内から出た「マスゴミ」呼ばわりにカチンと来たからだけじゃなく、「ニュース報道」の現実を反映していないファンタジーぶり、ディテールの甘さ、問題設定のピント外れを抱えた、脚本の出来自体にNGを出したのではなかったかと、完成品の穴だらけの惨状を見て感じました。


本当に描くべきタブーを避けて「やりました感」
、いわでもがなの重箱の隅をつついてみせたのは、このドラマを「タブーブレイキングな尊い作品」と思い込んで眼が潤んでしまった方々が、それこそ「正義」のイリュージョンを見せられているだけではないかと危惧したからです。 このドラマが光輝く神番組に見えてしまったのは、さっきも書いた「正義希求バイアス」があなたに見せている幻ではないですか? ご気分ハロー現象ではないですか? と注意喚起をしたかったのです。 現実事件引用に対する考察の甘さもまた、冒頭に引用した文春さんの記事の指摘通り。 無論、現実の事件をモデルにするのは、フィクションの常套手段であり、手法自体を責められることではないですが、『エルピス』での取り扱いの安易さ、取り込んだうえでの処理には、かなり稚拙さが目立つ。 何より、作品内で登場人物達が希求する「正義」の具体性のなさ、掘り下げの甘さ──ドラマ本来のプロットの詰めの甘さにはちょっと許せないものがある。

ここからはその話をしていこうと思います。

により「テレビ報道=正義でなければならない」という物語の根幹をなすテーゼ=浅川の思い込みが、そもそも異常だと思うんですよ。

「報道=権力の監視」が使命であるのは当然ですが、それ自体100%正義とは言い切れないし、調査報道をいくら重ねても、真実は取材者の手をすり抜けていくものなので。

大上段に自分たちの取材の成果が「正義」を担っているなどと考えるのは、おこがましい。常に真実のゆらぎを意識して、己の業務に「正義」という概念を持ち込まず、ただ起きている事を粛々とレポートし、誤謬や偏りを忍び寄らせないよう己の視点を疑い続けるのが、取材者の嗜み──事実僕らも業界入った時にそう教わりました。
でも、この物語にはそのデリカシーも、職業人としての当事者意識も全然感じられない。むしろモラルの捉え方が雑で危うい。政治との癒着ももちろん起きるし、大きな問題ですが、それを批判するのなら、ああいう雑なフレームと問題設定では絶対濾し取れないと思います。
製作者は、役者の熱演に乗っかりすぎだな、とも思いました。スキャンダラスな現実事件のコラージュで、リアリズムに寄せたふうに見せているだけで。

きちんと報道機関の劣化をあぶり出すつもりなら、悪代官役の政治家や権力を持った人間たちにメディアがどう取り込まれるかの事例をもっと緻密に調べて描くべきです。そんなキモの部分をファンタジーのブラックボックスにしてちゃ、話がふわふわしちゃって現実とちゃんと対比することができない。

「局の上層部が取引した」とかただの憶測で、具体的な描写はない。取材打ち切りのくだりの説明も、全然ディテール無しで済ませちゃってるでしょう? 

それこそ陰謀論の範疇を出ていない。過去、陰謀論の極みで描かれた映画──岡本喜八&倉本聰の怪作『ブルー・クリスマス』とかでも、報道と政治の力学についてもう少しディテールを費やして、誰と誰が何を企んだかはエピソードとして明示しているので、
『エルピス』の曖昧匂わせで逃げたやり口は、やはり手抜きとしか言いようがない。

調査報道の大事さを描くドラマが、そんなお手盛りでいいのかよと思うわけです。

作中
「権力に楯突くなら一撃で倒せ」ってもっともらしいセリフも出てきましたけど、その「一撃」はどこまで「事実」に根ざしているか、本質を捉えているか、によって破壊力を増すわけです。
でなきゃ、批判として機能しないですから。

全然一撃で倒す気ねえじゃん。

結局『エルピス』というドラマは、「局の上層部から怒られそうな“肝心の部分”はちゃんと避けて描いた」忖度優等生のドラマでしかないと思います。
えば国家の許認可事業であるテレビ局は、放送免許を取り上げられたら終わりですし、企業犯罪に対しても宣伝媒体であることがネックになったりと、いくつも「死角」を抱えている。

だから政府の領袖である政治家にスゴまれると、アレヤコレヤとイチャモンをつけられて放送停止になりやしないかと忖度しちゃう。原発問題がなかなか報道できないのも、要は大手電力はメディアにバンバン出稿してテレビもその恩恵を大いに被ってるので批判がしにくい。

そうしたテレビの報道機関としての弱点を明示して、きちんと具体的に描いてたら、それは陰謀論ではなくて具体的な「問題点の提示」です。

しかし、このドラマでは、テレビの危うさ、報道機関としての根幹に関わる問いかけは、微塵も描かれていない。


単に「官吏は強し、民は弱し」のムードだけで押し切ってしまっていて、主人公たちの受ける苦難は、中間管理職の得体のしれない忖度と自己保身に収束してしまっている。

要するにこのドラマの制作陣には、「今のテレビをぶっ壊す」気概なんか無いのです。
ヤバいと言われるテレビの現状を薄っぺらな「モテのネタ」にしただけで、外に向けては反逆者、内にむけては道化師、という態度を決め込んでいるのではないかと思います。


「テレビ報道=正義でなければならない」信仰

じ伝で、敵方に回った元恋人の斎藤(鈴木亮平)とのスタジオでの「駆け引き」のシーンなんか最悪ですよね。

彼女の告発しようとした事件は、2人も人死にが出た刑事事件なわけです。

「正義」を行いたいと思うなら、仮にもみ消される危惧があっても、正式の手順を踏んでまず警察に通報しなければ市民社会の公正を、自ら裏切ることになる。

あくまで、大文字の「正義」は、
公共の仕組みに信を置くフェアネス原理です。
それ以外の方法で、他者を悪と断じ処罰を下そうとするのは、偏見に基づく自警行為(ヴィジランテ)でしかない。

権力側の干渉による捜査停止が怖いと思うなら、よりタフな媒体(週刊誌)やネットで情報公開すればいいし、その波及力は誰もが知るところ。当事者の証言を流布すれば、どうやっても隠せないし、なにより捜査の偏向に対する民意の圧力になる。

政治は票で動くので、コントロールできないネガティブ情報が独り歩きするのが一番怖いのです。
その最適解をなぜ彼女は選ばないのでしょう?

浅川恵那が、あえて「私の番組での公表」に固執するのは、彼女がほんとは「正義」などどうでもいいと思っているからではないでしょうか。

正しい手順、最適の手法を選ぶより、己の自己実現=正義っぽいサイドでモノを言いたい。己の力でゴールにボールを蹴り込みたいというエゴに支配されているからではないですか? 

それは事件の私物化であり、自分のルサンチマンの表現に事件を、そして被害者をダシに使っているとしか思えないわけです。


人の命の重さも私達がジャッジ──テレビ様の正義そぶりの傲慢さ

して、その後、斎藤と交わした悪魔の取引の理屈にいたっては、噴飯ものです。
「少女殺害冤罪事件」を公表する代わりに、「議員の強姦事件」の方は隠蔽しろと教唆するのは、もう明らかに一線を超えて、自らが悪事に加担しているわけです。

また、彼の語る「政治家は国家の大きな問題を抱えてるから、どんな悪さをしても足を引っ張っちゃダメなんだ。彼が失脚したらめっちゃ人死が出るんだから手を引きやがれ」って理屈はあまりに幼稚で、どうしてそんなあやふやな物言いで、ケツをまくった、決死の人間を説得できるとおもってるのか。──で、また、されちゃうのか。

彼らは、トロッコ問題で問われる「一人の死が多数を生かす捨て石になる」と言う命題を一切考慮していないわけで──仮にも政治評論家が堂々というべきことじゃないです。

そんなヘコ理屈を真に受けた主人公の都合で「問われる罪」と「問われない罪」がジャッジされるにいたっては、もう堂々たるご都合(Idiot=ばか)プロットではないですか?

ようするに「この事件」と「あの事件」の軽重を勝手に決めて、自分の都合のいい方だけを公表してるわけですから。取引になってないし、そもそも天秤に乗せる権利もない。

繰り返しますが、違法行為に対する通報義務をないがしろにした隠蔽は、ただの犯罪行為です。
それをあたかも正しい選択のように言い繕う彼女の言辞は、明らかな欺瞞と自己正当化でしかありません。

浅川恵那、お前は閻魔様か?

と半笑いでツッコミたくなりました。


長々とも文句をいってきましたが、要は「正義」を問う物語であるのに、造り手に確たる「正義」のヴィジョンがないし、適切なエクスキューズも成されていない

ここに描かれているのは、テレビを「堕落した天使」になぞらえて、その威光に未だにしがみついている傲慢で独りよがりな「ナカノヒト」たちの、みっともない足掻きの構図だけです。

こんな物語は、タブーブレイクでもないし、正義をきちんと貫く物語でもありません!


この文の冒頭で、「
テレビのナカノヒトの自己弁護/むしろ賛歌」と言ったのは、この「テレビ第一主義」の傲慢さを指します。


ずっとこの物語では、どいつもこいつも無神経に「正しいことをしたい」だの「正義」だのってヒステリックに喚きすぎですし、全然内実も伴っていない。

やたら、金科玉条のごとく持ち出される「正義」が軽すぎるし、テレビ報道がその担い手でなくてはならないという強迫観念は、田舎歌舞伎の大見得みたいに馬鹿げているなと感じます。

いわゆる「正義」はもっと公理的なものですし、お気持ちリベラルのみなさんが思うポジションにピッタリはまらない場合も多い。保守的で頭の固い、原理主義最優先で、頑固な、扱いづらい抑圧的なものだからこそ、重くガッシリと社会構造を支えるものです。だから安易に口に出すものでもないし、そもそも個人が行使できる概念ではない。一方で、ときに個人の選択は「正義」から外れることがあっても構わない──とわたしは考える人間なので、この言葉が夢見がちなワードとして易易と吐かれるたびに、本当に不愉快でした。


どの局面でも、登場人物たちは全然ロジカルに物事を考えないで、その場のムードに流されているだけ。

役者は頑張ってて、いっけん葛藤してる風に見えるし、見ていてその気にさえされてしまうのだけど、
実は全然選択が理屈に沿ってない。

そんなグダグダな展開なのに、告発サイドはスッキリドヤ顔をして「正義を回復しました」みたいなエンディングになだれこんでドラマは終わる。

正直なにがどう解決したのか全然わからないし伝わらない。
こんなもんで、喜ぶと思われてる
我々は、そんなにアホですか?

お気持ち感動ポルノにはご用心

局制作陣は、己の被害者意識と、タブーブレイキングの麻薬的な感覚に酔っているだけではないかと思います。
ラストの無茶苦茶な選択のひどさはもちろん、そこに至るまでの
主人公・浅川恵那の道中各エピソードに於ける派手なブレっぷりは、職業取材者としての覚悟のなさを感じます。──徹頭徹尾「世の中(≒テレビ界)を渡るために何を忖度するか」の言い訳を延々積み重ねているだけで、最後の最後まで論理的にも倫理的にも、何も正しいことなどせずに終わるのだから、救われません。

要するに、このドラマはブレまくって周囲をかき回した、「自意識過剰のワタシを正当化するお仕事ポルノ」でしかないのです。

頑張り熱量だけは高いとは思いますが、役者の熱演に騙されて、こんなひどい内容のドラマを神話化しちゃダメじゃん、と言うのが結論です。

なんにせよ、雰囲気だけのお気持ち感動ポルノにはご用心。

ああ、ちょっとスッキリした。
では、みなさま良いお年を。



P.S.
こういうポリティカルスリラー話のちゃんとしたやつを見たい人は、Netflixで配信中の『シスターズ』をご覧になることをオススメします。

国家レベルの大きな物語と、個人の小さな葛藤の物語が、金という軸を通じて見事につながっており、「正義とはなにか」「お金ってなんだろう」と視聴者自身が我が身の想いを問い直すためのエクスキューズを、投げかけてくれる良作です。

二代に渡る家族の物語と、国家の選択がもたらす災いがきちんと不可分に絡み合って描かれていて、ディケンズやブロンテ姉妹あたりのクラッシックが醸し出すぶっとい手応えすらあり
(プロデューサーは『若草物語』の影響を示唆)、やはり現代韓国ドラマはすげえなと思うこと間違いないです。





 
14 2月

ハンニバル・レクターの#metooを告発する



権の事情もあるとは思うが、「レクター・クロニクル」に連なるサブストーリーと言うより、『沈黙』事件後のクラリスの人物像に焦点を当てるとのこと。

===================
脚本を執筆している間、"沈黙は終わった"という番組のキャッチフレーズが全面に押し出され続けていたんだ。それは、30年間もクラリスが沈黙していたことを意味していると思う。今度は彼女が話す番が来たんだと。
===================

シナリオ担当のアレックス・カーツマンのこの言葉をフカヨミすると、metoo運動を経た2021年の今だから描けるヴァリアント──映画版以上に、カノンである『ハンニバル』(原作)への批評性が高い展開になるのかも。

あのセクハラエンディングには俺個人ずっと引っかかっていたので、非常に楽しみ。

れで『ハンニバル』(ドラマ版)に接続してくれれば、大団円のアクロバットになるが……。
今回はCBS制作、向こうはNBC。
制作陣もまったく別なので、まあ無いか。
25 4月

すごいよ、安達さん。(テレビ東京「ドラマ25」『捨ててよ、安達さん』)





レ東が深夜ドラマ枠で断続的に仕掛けてきた、役者ご当人の私生活“風”フェイクドキュメントの最新作。
『山田孝之の東京都北区赤羽』
『その「おこだわり」私にもくれよ!!』
『バイプレイヤーズ』

と、どんどん仕掛けもエスカレートしてきて、さすがに茶番感が鼻についてきた感もあった。

今回の『捨ててよ、安達さん』では、ついに睡眠中の夢がメインの舞台。擬人化された「捨てられないモノ」が現れて、「私達を捨ててください」と訴えるーー断捨離テーマの対話劇なのだ。

フェリーニの『81/2』を彷彿とさせるほどのシュール度に加えて、安達祐実の温度の低いヤな女ぶりが震える。
もうここまで作り込んでしまうと、“ドキュメント”とは呼び難いと思うのだが、そうそう話は単純にはできていない。

女優である一方、主婦でもある安達が、セコい生活感をさらけ出してブチブチと言い訳を重ねるのを、メフィストフェレス役(おそらくは当人のアナザー自我)の謎の子供が、片っ端から正論カブせでツブしていく構成。その会話の身も蓋もない意地悪さが、見ていて非常に楽しい。

地谷しほりが「過去の代表作のDVD」を演じた第一回がまず大傑作。

(それとは名指ししないものの)『家なき子』という彼女の国民的大ヒット作をネタにしていて、フィクション丸出しの仕掛けなのに、結構際どかったり、リアルっぽかったりする感慨が散りばめられ、「ここは本音かも?」と虚実皮膜なスリルを醸し出して、見事に物語をドライブさせる。

脚本執筆前に安達自身にリサーチをして、現実の彼女の感慨や過去のリアルエピソードを取り込んでいるのかもしれない。

まさに我々もこういうインナースペースの疑似会話を自分と交わしながら、「捨てない言い訳」大会をしている訳でーーその意味では、まったくもって偽らざるドキュメントといえるw

役者の過去作に対する拗れた愛憎あるあるの小ネタを積み上げていきながら、最後まで「捨てる/捨てない」の判断のクリフハンガーで揺さぶるので、物語の緊張感が途切れない。

元子役の彼女が、現役の達者な子役(川上凛子)との漫才会話を交わしながら進行していくという仕掛けも巧妙。

ラストのオチは決して斬新とはいい難いのだが、十分な葛藤プロセスを経た後なので、すとんと腑に落ちる。お見事な脚本であり、演出・演技・撮影、全てが神がかった出来だった。

中の大半の時間を占める「夢の中の対話」シーンでは、就眠中という設定なので、髪もボサボサ、ノーメイク(に見える)で大半を演じ、さらには内面のあけすけな生活人としての心境を「安達祐実」当人として演じるのは、女優としてかなりリスクの大きな仕事だと思う。

しかし、この複雑な仕掛けと役柄をスムーズに見せて違和感を感じさせないのは、相当の力量だと思う。
YouTuberになって毎週魅力を語り倒したいほど「安達さん」にハマってしまったw

今週の第二回は、ゴム輪とレジ袋の男女カップルが登場。
いよいよ話がセセこましい世界に突入していく。


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