題になってるホテルの防犯映像の箇所については、ジャーナリズムの「緊急避難」性を優先すべきであろう。
そして「公共性」に鑑みてかんがえるなら、侵されているルール違反のサイズ問題──

A、「性暴力」と男社会のスクラムの権力で守られる犯罪者を野放しにしておくことと
B、その害毒を伝えるために必要な情報の「引用」はどこまで許されるか

とを比較して、どちらにより公共性/社会性が宿るかで考えれば良い。

俺自身は、ルールは線引きによって変わるものであり、厳密な運用が常に社会正義を導くとは考えてはいないので、今回のケースは「違法」の側面はあっても「義に反していない」と考える。

だから「緊急避難」なのである。
災害発生時、生き延びるために一時的に交通法規を突破しても、自分の命を優先することは悪ではない。
無論、その生存権の行使が、他者の命を軽視した行動であったばあい、モラルや法が適用されるのは当然である。

法が想定する外にも人間の現実が飛び出てしまうことは多々あるので、その場合はどっちが公共社会の「理」と「義」に沿うのか、丁寧に各論を尽くせば良い。それだけのことだ。

件の場合、これまで「事実か否か」を厳密に証明できない──と口を拭ってきた山口敬之とそのシンパの姿勢にこそ、公共社会のルールをより厳密に適用し、問うべきだと考えている。

(疑問に思われる方は、佐倉惣五郎の公訴が江戸時代当時のルールに於いて死罪に値すると断じられた事例を見れば良い。今、彼が義人として祀られているのは、「公共性」がどちらに宿っていたか、時代を経て再考察された結果にほかならない)

したがって、伊藤詩織のこの映画における「映像の引用」の権利と正当性を支持する。

でなければ、マイケル・ムーアの一連の告発映画や、その他多くのドキュメントの「権力に対する抵抗」の正当性を由としたロジックにも与することができない。

これは「力を持つもの」に対する蟷螂の斧であり、誤用されている権力へのレジスタンスの姿勢を示したものだからであり、報道者の姿勢として正しい。

ロである、ルール違反であるとしてその声を封じる姿勢に宿る「悪」に、俺はより恐ろしいもの、大きなものの暴力を感じるので、繰り返し伊藤支持を表明しておく。

そして、日本公開はオリジナル版で。